会社を興して何をする?
関わってみたい事業は複数あり、下書きしている定款の目的の項目にはあれもこれもと盛り込んでいますが、まず取り組んで土台としたいのは、僕の専門分野、飲食業での独立です。ただし、レストランを開くのではありません。「お店を持たないの?」とはこの仕事をしているとしばしば聞かれることですが、利益を出すのが非常に難しいのがこの業界。中でも悪さをするのが固定費。立地がものをいう商売なので家賃が足枷となりますし、設備にもお金がかかります。加えて最近は、人件費をはじめ、原材料費、光熱費といった変動費も上がりっぱなし。そもそも仕事のキツさの割に安い賃金が敬遠されて人手不足は深刻、労働力の奪い合いをしています。それでいながら売価は上げ辛い。結果、大手でさえ利益率一桁の店が大多数、それを多店舗展開することでなんとか経営しているのが実情です。個人店はその同じ舞台で戦わねばなりません。お店を持たれて奮闘されている方は本当にすごいと思います。
僕がやるのはキッチンカー。

車を持ってしまえばあとは出店料と維持費だけで、月々の家賃がかかりません。つまり、初期費用と固定費を店舗での営業とは比較にならないほど軽くできる、これは大きい。
その上で、コロナ禍を通じて変化した人々の生活スタイルに対応しています。最近回復しつつあるとはいえ大きく減った外食の機会、これは完全に元に戻ることはありません。特に職場近くでの付き合いでの会食。これはなくても良いものだとみんなわかってしまったので。でも、食事をする回数そのものは変わりません。では、その減った分を補うシーンは何かというと、プライベートな食事、おうちご飯だったり友人との語らいの場でしょう。キッチンカーは、そのニーズの多くをカバーします。もちろん今までもお弁当屋さん、コンビニやスーパー、路上での屋台販売がありましたが、それぞれ、好立地での出店が難しい、作り手の顔が見えない、食品衛生上に不安、そんな大きな弱点があります。キッチンカーはそれらをマルチに解決する優れもの。
ところが、プロフェッショナルな人がそれに特化して売り物を磨き上げた、そんなキッチンカーはまだ少数派です。飲食ビジネスの経験はあまりないまま、軽食やスイーツ、あるいは個人的に思い入れのある珍しいジャンルの料理で商売されている車がほとんどです。レストランで中心的な、日常の食事をちょっとお洒落に磨き上げた店、というのがとても少なく、車は並んでいても食べたいものがないということも。僕がチャンスありと見ているのはそこです。飲食のプロが、プライベートな食事シーンを彩るべく、キッチンカーありきでとことん考えてみたという店を出したいなぁと。おうちで食べるよりは華やかでお洒落、でも外食するよりはリーズナブル、そういう料理屋さんを目指します。
といっても、このアイデアは僕だけが温めているわけではありません。コロナ禍で定着したこの新しいビジネスモデルは、着実に成長拡大しています。街やイベントの活性化のために、キッチンカーを強力に後押ししている行政さえ見受けられます。起業するにはまたとない追い風が吹いています。むしろ僕は遅いくらい。



手伝い戦はもうやめだ

このブログを始めた頃に小学生になった長男ショーゴは、就職先も決まり、まもなく家を出て行きます。彼が学んだ上智大学の学費も完納。次男カンタは、大学受験生。来春始まる新生活がどんなものになるのかはまだわかりませんが、剣をペンに持ち替えて毎日勉強に明け暮れています。彼の教育費の負担はまだ残りますが、2人の息子達に対して親としての務めはほぼ果たした、と思っている今日この頃。
シングルファザーになって8年半、全力を注いできた彼らの養育。自分自身の心身のメンテナンス、自分がやりたいことや自分のためにやらないといけないことは後回しにしてきました。遊びだったり、勉強だったり、健康管理だったり。友達からのお誘いはお断りすることが多かったし、仕事では歳下の人がどんどん上に行ってしまいました。腰痛や睡眠障害にも悩まされ、歯も一部なくなってしまう始末。
いたしかたないことでした。離婚を決めた時、僕は息子達を立派に育て上げるのを最優先にすると誓ったので。何かをやるには何かを諦めるしかなく。ただ、この数年、そのゴールが見えてきた上に、コロナ禍で期せずして自分の時間ができるようになった僕は、子育てに燃える日々からいざ解放されたらもぬけの殻になるのでは、という恐れも抱くようになりました。この先僕は自分の中心に何を置いて生きていくべきなのだろう。新しくすべき覚悟はないのか。無難に時が過ぎていくのを眺めていく、僕にそれができるのか。そんなことを少しずつ考えてきて、今年の春、カンタの剣道の集大成を迎えた折に結論にたどり着きました。残りの人生、自分の好きなように、思うがままにやってみよう、もう1回チャレンジしよう、と。
来秋、独立します。

その事業とはいったい何なのか?もう、ラフを描く段階は終わり、行動に移し出し始めているのですが、それはおいおい、こちらで。まだ会社には内緒にしているし。


奥歯に衣着せられぬ
左下の奥歯2本を失いました。その奥の親不知はとっくに抜いていたので、つまり本来ある姿からマイナス3本、奥歯と呼べるものが1本しかなくなってしまいました。原因は歯周病です。2年前の夏、フラップ手術という恐ろしい経験もし、無事乗り越えたはずだったのですが、今年に入ってからその手術をした箇所が再び腫れ出し、歯がグラグラと揺れるようにまでなってしまいました。定期的に診て頂いているかかりつけの歯医者さんの、残念ながらこの歯を残す方法はもうなく、むしろ早く抜かないと次の選択肢も徐々に狭まっていく、という説明に納得、まずは8月に、奥から2番目の一番歯周ポケットに問題がある歯を抜きました。2年前の手術前後の通院の努力や痛み、そして治療費を思うとやりきれませんでしたが、致し方ない。抜いた歯は10代の頃に虫歯となり金の被せ物で覆われていました。これが売れるとわかり、今は金の価格が高騰しているから是非治療費の足しに、と鼻息荒く買取業者に持ち込んだものの、500円にしかならず。
抜いたところはインプラント治療をすることに決めました。ブリッジや入れ歯にする手もあり、それだと保険適用なので安く上がる反面、前後の歯も一部削らねばならず、噛む力も弱くなり、さらには定期的な更新が必要、というデメリットから、インプラントがベターとの見解。1本40万円くらいかかるようですが、僕は50歳、口内環境を騙し騙しやり過ごそうとするにはまだ若い。
1ヶ月ほど歯肉が盛り上がってくるのを待って、土台の骨の状態を精査することに。が、今度は奥にぽつんと残された歯が大きくぐらつくように。手前にあった歯とお互い支えあっていたのがそれがなくなってしまい、かつ噛む時に前方へ向けて力が加わるために、根元が揺らぐようでした。丁寧にケアし、気にしていましたが、日毎に揺れ幅が大きく、痛みも増すようになり、耐えきれずに相談したところこちらも抜くことに。麻酔が効いていたのはもちろんありますが、あっけないほど簡単に抜け、どれだけ根がダメになっていたのかと自分でも呆れてしまうほど。縫うこともなく。ただこれでインプラント治療は最低80万円...。
そうして今僕の左下奥は何もない状態に。まるで住人のいなくなった空き物件。早くここにインプラントを迎え入れ、生き生きとした環境にしたい。お金はかかるけれど残りの人生への投資だ、と意気込んでいたのですが、昨日、その説明を受けに行った歯医者さんでCT画像を見せられながら通告されたのは、「土台の骨がもうほぼない状態で、インプラント治療は不可能です」。ショック。
部分入れ歯を作ることになりました。この歳で、一部とはいえ入れ歯になるとは情けない。コンタクトレンズに続き、着脱と消毒、そして更新する手間も面倒だなぁ。



されど三段?

高校時代に担任の剣道の先生の影響でとっていた1級をひっさげ、カンタと共に始めたのが2012年。初段合格は翌年。が、二段合格はようやく2年前のこと。色々あって10年かかってしまいました。三段は二段をとってから2年鍛錬を積まねばならないのですが、コロナによる審査会の遅れという事情から遡った日付での合格となったため、今年の3月にはもう受審資格があり、カンタと共に参加。が、なんと僕だけ落ちるという屈辱。高校生、それもカンタのライバル校のエースとの立合いとなったのが痛かった。自分の剣道はできたつもりでしたが...。そうそう、春の審査会は主催が隣の市なのですかなぜか基準が厳しい模様。男子は半分近く落とされていました。
不合格は残念でしたが、またチャレンジしたらいい、のんびりいこうと思う僕に対し、剣友会の先生方は厳しく。自分の最大の課題は足だと認識しているのですが、そちらに意識を集中してやっていると、力が入っていて硬い、右が突っ張っている、もっと肘から柔らかく、と腕の使い方を注意されます。で、そちらを考えると、今度は攻めが単調になってしまい、指摘が。それでもなんとか打ったと思ったら、今度は抜けきることが疎かになり...。そうこうするうちに左足踵は外へ向き、足幅は広がり、重心がバラバラに。そうして最大の課題が少しも良くならないまま稽古後にいただくお言葉は、「今のままでは受からない」と。そうだろうけれどさ...。
教えをありがたく受けねばならない立場なのは充分理解しつつ、僕は若い時からされている先生方のようにはどうやっても動けません。それでもやるのは、そもそも理屈が面白く、それを理解した上で体現できるようになるのが楽しいからで、歩みは遅くたって構わないとさえ思っているので、困ったなぁとか嫌だなぁと思う時も多々あります。だいたい先生方は、意地でも打たせないか、わかりやすく打たせるか、のどちらかだし。
そんな折、週に1度、カンタの母校の中学校で夜にやっている自主練習の場、ここがとても有効でした。中学生相手だと、誰もあれやこれや言わないので自分で試して確認して、という作業ができるし、立合いをしても1人の強い子以外はなんとか封じ込めるし、おまけに子供達は懐いてくれて、僕にしっかりしなきゃと思わせてくれるし。とても効果的に感じ、以前はたまにの参加だったのが、4月からはほぼ毎回になりました。自分なりに成長を実感できることがあるのもありがたく。
三段審査会は日曜日の午後から。会場でアップはできないとのことだったので、その午前中、高校の部活にお邪魔し、稽古に加えていただきました。同じく段審査に臨むカンタの後輩達だけでなく、この2年半とてもお世話になった先生に緊張しながら初めて対峙。圧倒されて厳しいコメントを頂戴するのかと思いきや、僕の今もっている力をフルに引き出してくれるように絶妙な力の抜き具合でお相手して下さり、気持ちよく打ち込めました。さらに、「基本的なことはできているし気勢も充分、あとは、残心だけ。充実した気合いを打った後まで見せる、そこだけを大事にして下さい、そうしたら大丈夫だから」と言われてものすごく気が楽に。相手の受け入れられる範囲を意識し身の丈にあったアドヴァイスをし、さらにモチベーションをあげて下さる、流石に高校生の指導に定評がある先生は違う。おかげでほとんど緊張もせずに審査に臨めました。対峙したお相手がお二人とも大人で丁寧な剣道をされる方だったのにも恵まれ、終わった時に、うまくできたのではないかなと思いました。面と小手しか打たなかったけれど。



ターニングポイント


ただ、僕の中では試合はもうおまけ、そんな気持ちでしたので、あまり悔しくもなければ涙もなく。彼らがこの2年半積み上げてきた努力、困難に向き合って乗り越えてきた過程、それらが彼らの結果であって、僕はそれを傍で十二分に見せてもらったので、すでに満足でした。試合後、保護者達の前でキャプテンのカンタが涙ながらに感謝の言葉を述べている時には、ちょっとウルッときましたが。
カンタはそれ以降、部活はきっぱりやめ、毎日夜遅くまで予備校に篭って受験勉強に励んでいます。去年参加した玉竜旗も全く行く気はなかったらしく、話に上がりませんでした。僕はサポート役として博多に遊びに行く気満々だったのですが。また、千葉県の市町村対抗の剣道大会に出る成田市の代表チームにどうか、というお誘いもいただきました。成田の看板を背負って戦いたい、というのは小学生の頃から夢のまた夢だったのでとても光栄で嬉しく拝命すれば良いのにと思ったのですが、本人は大学受験があるので来年またお声がけいただけたら、とお断り。剣道で培った、目標に向かってまっすぐ取り組む姿勢、今のところ受験にもきちんと活かされているようで、僕が口を挟む必要も全くなさそうです。




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